始まりを知りたい

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それは、セカイを変えるスタートライン。

祭りの中に潜む"挑戦"、その形 -ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会校内シャッフルフェスティバル感想-

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挑戦。 

 

 

自分が虹ヶ咲に思いを馳せるとき、頻繁に登場する言葉だ。

1stライブで掲げられた「大好き」のあり方や、栞子という対立した存在を受け入れることを通した多様性のあり方の証明、そしてアニメ化という現実すら引き連れてきた彼女たちの姿。

 

ライブ、アニメ、ゲームと媒体の垣根を越え、更にはキャストとキャラクターの関係性を交えて無から有を生み出し、革新的な「気付き」をその身で魅せてくれる虹ヶ咲は自分にとってまさに「挑戦」し続ける"アイドル"だった。

そんな彼女たちの姿を通してコンテンツ・虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の歩みを見届けるのが大好きだし、これからもそういう見方で虹ヶ咲を推していくんだろうなぁと思う。

 

 

 

…突然なんでこの話をしたかというと、2021年3月、2日に渡って開催された『校内マッチングフェスティバル(以下KSF)』でも、そんな挑戦の姿が見て取れたからだ。

ぶっちゃけ「フェスティバル」「お祭り」と銘打ったこのイベントでそういったものを見て取るのは趣旨と違ってくるかもしれない。

けれど、ここがライブという誰かが輝くための場所で、何にも代えがたい場所だからこそそういうものを見出したくなってくる。

 

[要するに「このパフォーマンス/表現が良い!」みたいな系統の感想ではないので、そういうのを求めてる方にとってはめちゃめちゃ申し訳ないですが共感できる要素が少ない気がしてます(事後報告)。

単純に他と差別化した感想を残すには自分だけが受け取った感情をメインに置いた方がいいよね、というのが根本にあるのでそれを踏まえた上で読んでもらえたらな~と思います]

 

 

 

自分がKSFで見出した虹ヶ咲の挑戦の形。言わずともそれは「本来1人1人に割り当てられていた10曲を、『ステージ上で』『別のメンバーに』歌ってもらう」行為そのものである。

 

この行為、改めて見ると正気の沙汰ではないというか、ライブが終わった今ではよく実現できたね…?感がすごい。

何度も曲を聴いて、おそらくパフォーマンスも見てきたとはいえ、ステージ上でパフォーマンスをするキャストにとっては新曲を1つ初披露するのと大して変わらないと思う。

前田佳織里さんがMCで「これって本当にすごいことなんだよ!」と言っていたけれど、全くその通りすぎて……。

むしろ企画の突飛さやどんなアレンジが見れるのかな?という期待ばかりが強くて、本来の「パフォーマンスをすることの大変さ」そのものへの関心が薄れていたんだ、と前田佳織里さんの言葉に気付かされた。

 

 

自分は「ライブ」という催しをある程度、というかかなり神聖視している。舞台に立つ演者には何ヶ月か前に『○月○日にこういうステージに立つことになるから練習しようね』的なことを告げられると思うのだけど、自分だったらこれって残酷で、嬉しい感情だけではないよな、と。

 

ライブの予告をされて、いざ本番を迎えるまでの時間にどれだけの葛藤があるのか? ただでさえ声優としての本職の仕事があるのに、百千、あるいは万もの人が自分を見に来る未来のステージのことが頭にちらつかないなんてことはないと思う。

 

そういう意味でライブはオタクが絶対に見えることのない演者の心の動きが反映される大舞台だし、(まだ行ったことはないけど)舞台も含めて「意志が集積する場」と頻繁に例えたりもする。

ライブをするだけ、たったそれだけでも十分「挑戦」だ。

 

 

 

 

閑話休題

先ほど自分は虹ヶ咲のメンバー内で曲を交換し合い、別キャラクターのものである曲を自分のものとして歌う行為そのものが挑戦だと言った。

じゃあなぜその行為が「挑戦」だと見て取れたのか?どこにそう感じ取れる要素があったのか?というと、まず前提として自分がKSFに期待していたのは「あるキャラが他メンバーの曲を歌うことで生まれる新しい魅力の発見」だった。

 

それは一言で言えば「ギャップ」で、クール属性の子がかわいい寄りの曲を歌えば「うわ~新鮮!!」となるだろうし(実際にこうは言わない)、逆に普段はキャピキャピしている子が低めのキーでしっとりと歌い上げるようだったらそれはそれで悶絶しただろう。

 

つまり、自分が期待していたのは中須かすみが歌う「Magaret」を初めて聴いたとき、あるいは近江彼方が歌う「Butterfly」を初めて聴いたときのような衝撃だった。

 

 

 

でも蓋を開けてみれば、そこにあったのは圧倒的なシンクロだった。

同好会それぞれのメンバーのキャラクター性と、割り当てられた曲の歌詞のシンクロ――つまり、「この子がこの曲を歌っても違和感ないよね」っていうシンクロもあった。

けれど、それ以上に大きかったのは「例え曲が本人のものでなくても、パフォーマンスをする演者からキャラクターの影を見出せる」という1番底にある、ある意味根本的な「演者とキャラクターのシンクロ」だった。

 

「キャストとキャラが重なって見える」。このフレーズはラブライブ!シリーズに触れ、キャストのインタビューを見る中で散々聞いてきた言葉だし、(もしかしたらあるのかもしれないけど)他のコンテンツでこういうイメージを持つことは余りない気がする。

 

 

これってめちゃめちゃ不思議なことだ。

だって歌っている曲は本来その子のものじゃない。

 

けれど、それでもCHASE!のラスサビで高らかに叫ぶ相良茉優さんの姿は明らかに「中須かすみ」だったし、これでもかとビブラートを効かせて夢への一歩を歌い上げる指出毬亜さんには「エマ・ヴェルデ」がそこにいるとしか感じられなかった。

 

 

過去に書いたブログで「キャラクターとキャストが重なるのはどんな時?」を考えたことがあった。虹ヶ咲の1stライブ-with You-では村上奈津実さんがMCで「愛と同じ景色を見た!」と語り、自分の中でその問いの答えは「キャスト自身が作中のキャラクターと同じ景色を見ること」なんだと本気で思った。

 

ステージに立って、トロッコに乗ったのは「村上奈津実」さんで、宮下愛じゃない。確かに違うのに、違うはずなのに、

 

 

「笑顔がいっぱいの景色を見た!!」

 

 

そう言った。紛れもなく「宮下愛」の作ったものを見た、と。

そうだ、"重なる瞬間"ってこれだ。

キャラクターと同じ景色を見ること。

 

 

今でもこの考えは変わらないけれど、でも過去のこれはMCから派生したものだ。バックスクリーンに歌詞が映され、レーザーが舞い、光の海が揺れる中でのあのパフォーマンスから感じ取れたものじゃない。

 

 

だけれど、KSFでは「MCからじゃなく」「パフォーマンスから」キャラクターが重なって見えた。

あえて自分ではない他のメンバーの曲を歌うことで、「この曲を歌っているのは紛れもなくあの子だ」と感じさせる表現があった。

 

 

 

それは虹ヶ咲キャストのお互いをリスペクトし合える関係性から生まれたのかもしれないし、他メンバーの曲に自分が担当する子の要素をいかに取り入れるかを考えに考えた結果なのかもしれない。

これに関しては「違う曲でもキャラクターを感じられた」という事実だけで十分だと感じる。その事実がどこから生まれたかなんて予想はできても正解は分からない。不透明でいいんだとさえ思う。

 

 

 *

 

 

「シャッフルすること」がライブの1つの演出として存在することはあっても、「シャッフルすること」そのものをコンセプトにできるのは(自分が知る範囲で)ソロ活動をメインに置く虹ヶ咲だけだ。

過去にないやり方で道を作っていく虹ヶ咲を信じていたいと思ったのはもうかなり前のことだけど、今でこそこうやって供給されるものにちゃんと心が動かされているのは幸せだなと。

 

大小に関わらず誰かを動かすことができるコンテンツこそ強いし、受け取った自分自身がそれを形にしてインターネットの海に放流しておくことが最大のお返しなのでできる限り続けていたいですね。

 

 

 

 

 

過去のライブ感想↓

 【虹ヶ咲1st】

luna-gp.hatenablog.com

 

ラブライブ!フェス】

luna-gp.hatenablog.com 

【虹ヶ咲2nd】

luna-gp.hatenablog.com

 

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