「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」という空間。
さて、「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」の話をします。実は本ブログ、書き始めたきっかけってそこまでのめり込んではいなかったμ's・Aqours含め「ラブライブ!」関係の記事を見たことなんですよね。(マジ?)
自分が目にした記事達には形容しきれない程の書いた人の"熱"があって、確かにそこにはラブライブ!に影響されて「変わった」、「変えた」人たちがいるということを7ヵ月前の自分は知ってしまいました。
いつかそういう文が書きたいなあとは思いつつも、他の好き好き言ってるコンテンツに時間を割いていたら結局半年以上も経ってしまった……。
言い訳っぽくはなる(多分一番最初の記事にも書いてある)のですが、その一つの理由としてまあ「ラブライブ!」のことを知らなさすぎる。アニメだけ見ていた過去の自分にとっては悪く言えば「その他大勢」であったことを否定はできないし、今でさえたまにμ'sの知らない曲に遭遇したりもします。
何より知識が無かったら書くものも書けない、というのは痛感しました。"熱"のこもった文は今でも正直書けないかと。今はですがね!
じゃあ自分には一体今何が書けるのか?何に"熱"を込められるのか?
気が付けば、自分の中には淡く、けれど力強く、九重の色を持った光が少しだけ何かを「変える」のかもしれないという予感がありました。
「同好会」である意味
余談でした。
以下、その虹ヶ咲一人一人を"個"としてではなく"虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のメンバー"と見たらどうなんだ?という見解です。
*「存在しない繋がり」=「純粋」
キャラ同士の過去の繋がりが極力無いコンテンツが好きなんだなぁと最近思う。性格も好みも信念も何もかもが違う子達が「自分の中だけで完結した」意志/目的を持って初めて同じラインに立つ。
— サト (@Sato_BeginninG) 2019年11月28日
たった一つだけ重なった何かが結び付け合って「始まり」が始まっていくの最高にエモくないですか?(伝われ
最近自分が好きなコンテンツ(って言っても2つしか該当しないんですが)に何か傾向がありそうだな、ということでこのツイートをしたんですが、意外と本質的だったんじゃないかと。そこから虹ヶ咲の魅力を考えてみようと思った次第です。
……虹ヶ咲に限らず、物語の中の人物がアイドルになろうとする「動機」は何が考えられるでしょう?
例えば、画面の向こうあるいはステージの上で輝いているようなあの子になりたい。
例えば、夢に向かって突き進もうとするあの子と一緒に夢を追いかけたい。
例えば、誰かを励ますことができるような、何かを与えられるような存在になりたい。
もちろんそれは様々です。当たり前ですよね。人の数だけそう思わせるような出会いがあって、その出会いの対象やタイミング、自分が置かれている状況によって必然に多様性が表れてくる。
そして、(ある傾向として)「アイドルになった」子達が集まり、一つの『物語』を展開していくと。
問題は、そこに集まった子たち同士が「『物語』が始まる以前の繋がり」を持っているかどうか、「誰かが誰かの『きっかけ』に直接関与していたかどうか」です。
結論、自分はそういう目立った繋がりが無い方が好きだと言えます。
何の縁も無かった子達がたった一つだけ持ち合わせた「アイドルになりたい」という想い。
集まったその意志は確かにその時まで独立した、「自己の中で完結されていた」ものであって、互いが互いと向き合って初めてその想いの強さや深さを知り、競い、洗練されていく。
自分の中の"アイドル"に悩み、誰かの中の"アイドル"に悩んで、それでも自分自身だけが作り出せる何かを求め続ける。
それはいかにも「アイドルとして」"純粋"で、一つの輝き方なんじゃないかと感じます。
多分、自分はそういうあり方が好きなんです。だからこそ、その真っすぐな輝きが照らす先を見てみたいとも思ってしまう。*1
*意志が集う場所
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会もそこにいるアイドルたちも、その"純粋"に近い存在だと思えます。
彼女たちに共通していたのはただ「学校」というコミュニティに所属していることだけで、間には原体験的なやり取りも、感化されるようなきっかけもーー「アイドルになること」の過程にはそんな繋がりが無いんですよ。
「あなた」という立役者がいたとは言え、「アイドルになればできるかもしれない何か」にただただ惹かれて、違う、だけれど同じ意志を持った子に彼女達は巡り合った。
何もかもが違っていた。過ごした時間も、性格も、好みも、信念も、目標も。
けれど、その違いを彼女たちが意識するまでもなく、
「個性」を最大の武器にして、自分達は"輝ける"と気付いた。
「違う」から。「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」という空間で、初めて同じラインに立ったから。
同好会で「始まった」彼女達は、"○○系スクールアイドル"と自分を称したり、自分にしか歌えないソロ曲を歌っています。
これをただ「個性」だよね、とありふれた二文字の言葉で受け取ってしまうのはほんの少しだけ物足りないというか、的を射ていないように感じてしまう。でも、それが「個性」であることに何ら変わりはない。
結局何が言いたいかというと、その個性はただの「個性」じゃなくて、"アイドルとしての純粋さ"が後押しした、何か特別なものだと感じる訳です。
そんな特別な個性が集まった空間こそが「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」なんだ、とも。
あと、私見ですが「同好会」って名前めちゃくちゃ好きなんですよね。まさに「好き」同士が集まってその空間を形作っている。そうさせているアイドル達もまた「繋がり」が無かったからこそ、結ばれるべくしてできた出会いに運命的なものを感じたりします。
僕たちのドリームワールド
「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」は空間としてもう一つの役割を担っているとも思います。そこは、夢見た少女達がただアイドル活動に励むだけの場所ではなく、「個性」に真剣になれる場所でもあるんじゃないかと。
マイペース系スクールアイドル、近江彼方。
彼女の閉じる瞼の裏には、計り知れないくらい「ワガママ」な夢が詰まっている。
「アイドルになってみたい」という意志を持った彼女は、自分の為に、妹の為に、その夢の為に努力すると決めていました。彼女なりのやり方で、彼女なりの目的を持って。
「マイペース」を謳う彼女だからかもしれないですが、その決意を知ってこう感じてしまうんですよ。
自分にしかできない努力をすることは、自分の個性を輝かせることと同じなんじゃないかって。
多分他のアイドル達だってそうなんです。
大好きを解放すること、そうすることができる世界を作ることに「真剣」で。
いつか目の前に広がる、「笑顔」が咲き誇った景色を見ることに「真剣」で。
自分にしか出せない、けれど誰よりも頂点に近い"可愛い"を追うことに「真剣」で。
"空間"にいる自分達にしかできないことに「真剣」だからこそ、自分達にしか生み出せない、たった一つしかない光がそこからは放たれている。
何よりその光は、スクールアイドルである彼女たちの「個性」として輝いて見えるんです。
――同好会は、「個性」に真剣になれる場所だ。
TOKIMEKI Runners
見方によって、世界は変わる。
Aqoursが掲げたそれは、何人だろうと、どんな形だろうと"輝く"可能性を秘めているというメッセージ性が込められたものに見えなくもないです。
虹ヶ咲のスクールアイドル達も、自分にしか出せない形で輝いてるのかもしれない(というか輝いている)。
結局帰着する場所は、虹ヶ咲のそのあり方が、その輝き方が好きってとこなんですよ。
好きなら応援したい、それだけです。
TOKIMEKIを求めて走り出した彼女たちの、淡く、だけれどとても力強い唯一の輝きを──この目で。
とびきりの明日へ行こう。
*1:作られた共同体内の誰かに依存したきっかけは所謂"不純"か?ということではないです。あくまで「アイドル」として純粋だと思うのが自分の主張で、「物語」として"純粋"か?となると違った話だし、それで生まれる輝きも事実強いものだと思います